まずはじめに、
午前七時は僕がひどく憂鬱になる時間帯であることを先に述べておきたい。
そんなとき一体何を指標にして自分の置かれた状況を把握し、さらにはそれに対応した行動をとるのだろう。
こういった自問自答は哲学の醍醐味である。自己の理解を限りなく深め、それを昇華し、最適解と呼べるものにたどり着き、そしてそれは間違いだったと知るのだ。
人生などは所詮不公平である。
才能という誰にも侵せないものを持っている人間が、
その才能に気づかないのもまた人生の不公平さを現している。
しかし、そんななかでその才能を如何なく発揮する人間がいる。今回は才能しかないのではないかと思われる人物を一人分析してみたい。
やくしまるえつこ、である。
また、今回はやくしまるえつこを分析するにあたって避けては通れないであろうバンド'相対性理論'を主軸にして分析していく。
主に楽曲の進化過程及びやくしまるえつこのプロデュース能力の開花のポイントについて分析していくつもりだ。
先にことわっておくが、彼女に憧れる女性アーティスト諸君は憧れを捨ててほしい。同じフィールドで戦うのであればなおさら憧れてはいけない。
なぜなら、あの声と歌い方は彼女にしかできないからである。
声質が特殊なのは聴けば解っていただけるであろうが、突っ込んだ言い方をすればミックス段階でいくらイコライザーをいじったとてあの声に含まれた倍音を再現するのは不可能だ。
音場を分析すればおそらくそのレンジの広さに驚愕するだろう。簡単に言えば声が細くて太いのである。
たとえれば深いコクを持った出汁で作られたお吸物なのだ。そしてその声を最大限に活かしたブレスの仕方をとっており、あの声でしかできない歌い方に最適化している。
悪いことは言わない。
真似をするのは今すぐやめるべきだ。あれはやくしまるえつこにしかできない。努力で埋められる範囲ではない。
さて、前置きが長くなったがともかくいったん相対性理論の楽曲について触れていこう。
リリースされたインディーズ盤としては『シフォン主義』が最も古いアルバム(EP)であろう。
このコラムを書くにあたって改めて聴いてみたのだが、特に真新しいことはしていない。ただ当時のメンバーの楽曲理解度が異常に高いのか、モッズ系や渋谷系、パンクロックの要素なども感じられるほどに様々なエッセンスが散りばめられている。
この当時には相対性理論らしさの様なものはまだないが、やくしまるえつこの声が異様に耳に残る。歌は決して上手いわけではない。声が残るのだ。
その点ではクラムボンなどに通じるものがあった。ちなみにこの頃からやくしまるえつこはPVなどに仕込みをし始めている。プロデュースという意識ではないだろうが、何か遊びを混ぜ込んでいる。
問題は二枚目だ。
『ハイファイ新書』
コイツがクセモノで、一曲目の「テレ東」からもうたまらんのですよ。
このあたりからシティポップの要素が入ってきて、より洗練されたポップサウンドが聴けるようになる。
おそらくこのアルバムからやくしまるえつこが本領を発揮してきたのだと考えられる。この流れは後に語るが『天声ジングル』まで続く相対性理論サウンドと呼べるものの始まりだろう。
これらの観点から、相対性理論とはかなり早熟なバンドなのが解る。二枚目にして相対性理論というバンドのキャラクターが出ているのだ。
プロデュースワークも秀逸で、顔を出さない、インタビューを受けないなど、音楽以外の情報量が圧倒的に少なかった。
これは今のSNSにおけるアーティストのやり方とは真逆である、というのも、相対性理論がインディーズにいた当時(10年前)はSNSはさほど活発ではなく、むしろ大体のバンドは写真にしてもインタビューにしてもどんどん受けたくなるのが心理であるのに、相対性理論はそれをしなかった。
この時点でプロデュースを仕掛けた人間のクレバーさがわかる。アイドルや芸能人はプライベートの切り売りが基本になってきていた中で、純粋にアーティストとしての態度を示したのだ。
僕はそのように解釈している。
これは余程自分たちの音楽に確信を持っていなければできないことである。そしてある時期からメンバーそれぞれが顔を出したり個人活動を始めるのである。
やくしまるえつこ本人はモデルとして活動するなど、本当に計算し尽くされたプロデュースワークである。この時点で相対性理論というバンドの異様さが解るというものだ。
さて、閑話休題としてやくしまるえつこのソロ楽曲について触れてみよう。
僕がいまだに分析をし続けている曲がある。『ノルニル』と『少年よ我に帰れ』の二曲だ。
この二曲に関してはアニメ『輪るピングドラム』の主題歌であるので聴いたことがある方もいるだろうが、いやね、この曲さ、どっから手を付けていいのかわからないくらいに凝ってるのよ。コンポーズ〜アレンジの段階で相当作り込んでいるのが解る。
楽曲構成ばかりに目が行きがちなんだけれども、このニ曲はコードアレンジとリズムアレンジが非常に高度なレベルでなされている。
クラシックの要素がしっかりとポップに昇華され、やくしまるえつこの声も相まって実験的でありながら、いや、実験というより作曲家たちがチャレンジしてきたことにチャレンジしつつも新たな方向性を目指したという意味でこのニ曲は非常に意義がある。
これをプロデュースしたというのだから、やくしまるえつこ恐るべしである。聴いたことない人は今すぐに聴いてほしい。
話を相対性理論に戻す。
長くなりそうなのでこれで最後だ。
先程紹介したアルバム『天声ジングル』である。これは僕CD買いましたよ。
やくしまるえつこの各活動でやってきたプロデュースワークと音楽家としての才覚がシンプルなバンドサウンドに乗っかった名盤なんですが、「ケルベロス」はその中でもシンプルかつキャッチーかつ成熟したバンドサウンドで、さらにしっかりと相対性理論サウンドになっているという点でも素晴らしい曲なんですよ…
特にこのアルバムのすごいところは、というより相対性理論のアルバムを通して言えることなんですが、核になる曲が無いんですね。どこから聴いても通して聴けるようになっている。120%の曲が無い。
つまりちゃんと計算してアルバムが作られているんです。何回も通して聴いて思ったのが、コード進行などはそこまで凝ってないんです。メロディについてもキャッチーであること以外はむずかしいことは一切ない。相対性理論及びやくしまるえつこの最高にやばいところはアレンジなんです。
僕はここに相対性理論サウンドの極意があると見てます。
アレンジにこだわるというところから見ると、方向性としてはオルタナティブではなくシティポップ寄りなんですね。山下達郎などに近い。
たぶんやくしまるえつこもその辺はちゃんと理解してプロデュースしていると考えられます。
さて色々と分析してみましたが、やくしまるえつこ自身は「相対性理論はソフトウェア」と言っているようです。
つまり変幻自在だってことです。
プレステじゃなくてファイナルファンタジーだと言ってるわけですね。
よくわからないな。
要はバージョンやナンバリングが変わればその都度メンバーもサウンドも方向性も変わっていく。
そんなバンド、というよりも音楽集団なのでしょう。やくしまるえつこ自身も本人が役割を終えたと思ったら潔く辞めるに違いない。
最後に僕が一番びっくりしたやくしまるえつこのタイトルは『わたしは人類』だと記しておきます。
微生物のDNAを人工合成して染色体に組み込んで、人類が滅んだとしても未来の生命体がその記録を読み解き、音楽が奏でられる。
そんなロマンチックなリリース方法があるのかと。
やくしまるえつこにとっては音楽家なんて肩書なんぞどうでもいいんじゃないかと思える。彼女が目指すのは一体何なのか。これからもやくしまるえつこはきっと何か面白いと感じたことを一番面白いタイミングでやりつづけるだろう。
負けてられないよね、なんてことをちらっと思って、僕は煙草に火をつけるのでありました。
相対性理論 『テレ東』
相対性理論 『ケルベロス』